夢に向かって挑戦する「人」の「人生の突破口」に迫るインタビュー「BREAK THROUTH(ブレイクスルー)」。
第一回目のゲストは小牧の会員様にはおなじみの岐阜セイリュウヒーローズキャプテン荒木浩さん!
ひざの故障で松葉づえ状態からのカムバック、プロになる夢、児童施設の子供たちに伝えたいこと等、
荒木さんの熱い想いがぎっしり詰まっています。どうぞご覧ください!
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○バスケットボールをはじめたきっかけはなんですか?
はじめてバスケ部に入ったのは中学2年生の時でした。当時仲のいい友達がバスケ部だったことがきっかけです。
高校では先生やチームメイトに、バカにされたくないとか、負けたくないという気持ちだけでバスケをやっていたので、あまり楽しくはなかったですね。
当時は、自分はバスケ以外にも、いろんな能力があって、なんでもできると思っていたので、社会人になっても、当然ビックになれる!という根拠のない自信があったのですが、高校を卒業して社会に出て働いてみて、自分の考えの甘さ、未熟さを痛感しました。
ただその時に、自分の人生をふりかえってみて、自分は人生で誇れるものはあまりないけど、バスケットボールだけは、他の何よりも一生懸命に取り組んできたということを思い出して、やっぱり自分にはバスケしかない。
もう一度バスケをやってみようという思いが湧き上がってきて、働きながらではあったんですが、クラブチームや実業団に所属して続けていました。
その時に、どうやったらもっとうまくなれるんだろう、どうやったらプロになれるんだろうと考え始めたのを覚えています。
○プロを意識するようになって気持ちの変化はありましたか?
いつも、どうやったらもっと上手くなれるか、どうしたらプロになれるかということを考えてはいましたが、当時はプロのバスケットボール選手という選択肢が無かったんです。
上手い奴はみんな、バスケの強い大学に行って、実業団のトライアウトを受けてチームに入団するのが一般的だったんですが、当然自分は大学に行っていなかったので、そのルートがなかったんです。
そんな時に、たまたま23歳くらいのときに、神奈川のチームのトライアウトがあるというのを聞いて、「これしかねえ!」と思って、すぐにリュックしょって原付で名古屋から神奈川までトライアウトを受けに走ったこともありましたね(笑)
○トライアウトの結果はどうだったんですか?
はい。いろいろあったんですが結果的に、神奈川のあるチームに合格し入団することになりました。
ですが、入団後、チームの人間関係が上手くいかず、自分に対して「あいついらない」「あいつ使えない」という声が聞こえてきて、とてもつらかった時期でもありましたね。
そんなこともあってなんとかチームメイトに認められたいという思いから、筋力トレーニングに力をいれはじめたのもその頃でした。
ベンチプレスやスクワットで、何キロ上げられるかというところばかりにこだわって、そこだけはプロにも絶対負けたくない一心で、毎日取り組んでいましたね。
その結果、筋肉がついて体も大きくなって、見た目は良くなってくるんですが、バスケの上達にはなかなかつながらず、それでもがむしゃらにトレーニングを続けた結果、ヒザを怪我してしまったんです。
バスケが本気でできなくなるくらいの、けっこう深刻なケガでした。
地元ではないので、気を許せる人もいない。チームメイトとの関係もうまくいっていない。
トレーニングのしすぎでヒザを怪我してしまう。
そういうどん底状態が続いたのもあって、神奈川から逃げるように愛知に帰ってきてしまった私は、そのことが受け入れられず、しばらくはバスケをすることもできないくらい精神的に落ち込んでしまったんです。
○そんな、つらい時期をどのように乗り越えたんですか?
その後、愛知の実業団チームに所属する知人から「もう一回バスケやらないか?」と声をかけられて、悩んだんですが、バスケを再開するためにヒザの手術を決意しました。
医師からは「50歳、60歳だったら分かるけど、20代(当時)でどんなことをしたらこんなヒザになるの?」と言われるぐらい重度の「変形性膝関節症」という診断でした。
ぶつかったり捻ったりして靭帯が切れたとか、伸びたとかではなくて。
筋力トレーニングによってヒザに負担がかかってしまったということで、自分が努力だと思って続けていたことが間違っていたんだとその時あらためて実感しました。
手術は無事済んだのですが、1ヶ月は松葉杖生活でした。
その時知人からリハビリもかねて、初動負荷トレーニングをすすめられたのがきっかけで、ワールドウィング小牧に入会をしました。あれからもう8年になりますね(笑)
○初動負荷トレーニングをはじめてみていかがでしたか?
最初は半信半疑で、こんなトレーニングで効果があがるのかなと思うこともありましたが、続けていくうちに、関節の可動域が広がって、体が柔軟になり、ケガをする前よりも動きがよくなっていく感覚を実感できました。
これならもっと上を目指せるかもしれないと思うようにもなりました。
現在(2016年8月)は縁あって「岐阜セイリュウヒーローズ」というチームでプロチームを目指して地域活性のためにプレーさせてもらっています。
チームメイトの中には一回り以上年下の選手もいますが、若い彼らにひけをとらないくらいまで、現在は動きも回復してきています。むしろダッシュだったら、自分の方が走り勝てたり。
そこは初動負荷トレーニングの恩恵だと思っているし、自分の積み重ねてきたものの結果だと思っています。ヒザの回復とあわせて、年々やれることが増えているのも実感します。
バスケを通じてそういうことを感じることができるので、嬉しくてまたバスケを続けられる。そんないい循環に入っていると感じます。
○挫折や怪我を乗り越えてバスケットボールを続けてきた原動力は何ですか?
私は母親を乳ガンで幼いうちに亡くしているので、おばあちゃんが母親代わりでした。
ワールドウィングに通いながらバスケットに復帰して、NTT西日本東海に所属していたとき、実業団の大会で全国大会に出場したんです。
県大会、東海大会というのはあったけど、全国大会というのは初めての経験でした。
全国を経験したことで、バスケの結果も残せたし、そろそろ結婚して、家庭を作って、世間でいう「ちゃんとした生活を送るべきなんじゃないの?」とみんなに言われて。ああ確かにそうだなと思っていた時に、お婆ちゃんが亡くなりました。
おばあちゃんは「人生よく笑え。笑って過ごせ。」
「日々の出来事に対して、よく考えろ。」
「心を動かされることを持て。」とよく言っていました。
「よく笑って」「よく考えて」「感動できること」があって、この3つを日々重ねていきなさいと。
この3つがある1日が1週間続けば、その1週間はものすごく幸せな1週間だと。
それを1ヶ月、1年と続けられる人生を送れと。いつも私にそう言ってたのを覚えています。
私は、そのためには、「夢を持つこと」が一番だと思ったんです。
うまくいったりいかなかったりあると思うんですが、つらくてもうまくいく事が想像できるから頑張れる。
人の顔色うかがって、夢をあきらめた人生を送るより、人生1回きりですし、夢を持って生きたほうが良いんじゃないかって思ったんですよね。
今にいたるまでも、たくさん失敗して、苦しい事もいろいろ経験して、それでもあきらめないで、やり続けて、想い続けて、奇跡的に今のチームに出会って、いさせてもらっています。
「まだ夢追ってんの?もういい年でしょ?」と言われたら、昔は嫌でしたけど、今はそう言ってくる人は、きっと夢をあきらめた人なんだろうなって考えれるようになりました。
だったら一般ピープル代表の自分がアラフォー間近で、プロ選手になっちゃったりしたら、それってすごい事ですし、「あれ?荒木がいけたんだったら自分もいけるんじゃない?」とか思ってくれる人が増えると良いなって思います。
私の事を、夢追い人とか、迷走してるとか言ってる人にこそ、もう1回夢を持つ事の素晴らしさを思い出して欲しいし、
「夢は叶う」って事を証明したいですね。
そういうふうに思えるのもすべておばあちゃんのおかげだと、今でも感謝しています。
○荒木さんの「叶えたい夢」はなんですか?
Bリーグのプロバスケットボール選手になることが、今の私の夢であり、目標ですね。
そして、プロ選手になれたら児童施設にも行きたいという夢もあります。
いろいろなプロの選手がいると思いますが、私だからこそ子供たちに伝えられることがあると思っています。
私は小さい頃、親がいない劣等感から「僕は生きていていいのかな?」
「本当に僕はこの世に生まれてよかったのかな?」
そういうことを思った時期がすごく長かったので。
親がいない、苦しい、寂しい経験をしている子供たちにそうじゃないことを伝えたいし、もし同じ思いを抱えている子供たちがいたら、自分の試合を見に来てもらって、バスケットボールのプレーを通じて、何かを感じとってもらいたいと思います。
君たちは必要ないとか、親がいないから夢見ちゃいけないとか、生きてちゃいけないなんて絶対ないから。生きていることが奇跡だし、愛されることって素晴らしことだし、皆にも絶対そういう縁があるから。
みんな見てるから。みんなちゃんと君のこと見てるから。
劣等感を持つことなく、ちゃんと自分の人生を前向きに楽しんで、笑顔で生きていってほしいっていうこと。そして、夢は必ず叶うこと。
努力、あきらめない姿勢を子供たちに伝えていきたいです。
それが、プロバスケットボール選手という夢の先にある、私のおおきな目標です。